禅(ぜん)」は、禅那(ぜんな)(=禅定)の略語。
禅那(ぜんな)」は、仏教用語として「心が動揺することのなくなった状態」を意味する
 サンスクリット語「ध्यान( dhyāna、ディヤーナ)」の音写(=禅定)。
【類義語】「三昧(さんまい)」や「定(じょう)」と訳されるサマーディ(巴、梵: samādhi)がある。
禅定(ぜんじょう)
(サンスクリット語: ध्यान、dhyāna、ディヤーナ、パーリ語: झान、jhāna, ジャーナ)
禅那(ぜんな)」とは、仏教で「心が動揺することがなくなった一定の状態」を指す。
 サンスクリット語の dhyāna の音写である「禅」と、
 訳した「定」の複合語で、「静慮」とも訳される。(Wikipedia、一部改)
・心意識を離れた自覚聖智を証得せよ 『楞伽経』


 

「空(くう)」


仏教における「空(くう)」
・梵: śūnya    [シューニャ]
・梵: śūnyatā [シューニャター]、
・巴: suññatā [スンニャター][1]、
「一切法」は「因縁によって生じたもの」だから
「我体・本体・実体」と称すべきものがなく空(むな)しいこと[2][注釈 1]。
「空」は仏教全般に通じる基本的な教理である[2]。(Wikipedia)

[注釈]
1. 全てのものごとは「空であると観ること」を「空観」という。
[出典]
1. 「suññatā (f.) 〔suñña-tā, abstr. fr. suñña〕空たること. 空性. 空.」
 雲井昭善『新版 パーリ語佛教辞典』、2008年7月改訂新版、山喜房佛書林、p.954
2. 総合仏教大辞典 1988, p. 279-281.
 

@固定的実体の無いこと。
A実体性を欠いていること。
Bうつろ。
Cサンスクリット語のシューンヤは、「…を欠いていること」の意。
(『岩波 仏教辞典 第二版』中村元他遍、岩波書店、2002年、238頁)
 

@一切のの事物はすべて因縁より生ずるものであってその実体も自性もないとする考え。
A一切の事物の固定的な実体を否定すること。また実体を見ようとする考えを否定すること。
B実体を否定し去り、執着の夢を去ったところに一切の存在のありのままのすがた(実相・真如)が
 おのずから顕れること。
C虚空、大空。またその空中。
D密教で、印を結ぶ時の親指をさす。
Eうつろ。から。無。
(『例文 仏教語大辞典』石田瑞麿、小学館、2011年、201頁)
 

「般若心経」

色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
とあるので、「空」とは「色」のことである。
 

道元

「色是色なり、空即空なり」と述べている。
「百草なり、万象なり」、理屈無く、『ただ百草』であり、『ただ万象』である。
(「NHK宗教の時間 道元『正法眼蔵』をよむ」角田泰隆、NHK出版、2021年、19-20頁)
 

空海

「経のなかの「色即是空、空即是色」の部分は、
異なった二つのものを即(イコール)で結ぶという意味で、
華厳宗の法界縁起の教えが説かれていると考えられますが、
そうなれば、普賢菩薩は、ご自身の境界である華厳の教理だと知って、
あごを開いて笑い喜ばれます。」
(『ビギナーズ日本の思想『空海「般若心経秘鍵」空海 加藤精一遍、KADOKAWA、2021年、53頁)
 

龍樹

「空」とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」と同義である。
・「縁起を特性とする空」
・「一切法の縁起を特質とする自性空」
(『龍樹』中村元、講談社、2015年、234-235頁)

 

・縁起

龍樹は、私たちの身の回りに存在している事物は様々な条件が重なり合って成立したものだと考え、
その様々なものとの相互関係を「縁起」と呼んだ。(44頁)
(「NHKこころの時代 宗教・人生『瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する』蓑輪顕量,NHK出版,2021年)
 

山田無文

「般若心経では、諸法は因縁によって生じたものであるから、そこに自性はない、
自性がないから去来がない、去来がないから畢竟空であると(中略)
すべての存在、物は因縁によってできたものである、
私どもの身体は因縁によってできたものである」91頁
「空ということは何もないということではなくして、空という状態そのまま健全な身体あることだ。
色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。身体のあるままがそのまま空だ。
空であるということはそのまま身体があることである。
そこから、私どものとらわれのない自由な健康な生活ができると思うのであります。」98頁
(『般若心経』山田無文、禅文化研究所、2011年)
 

・いま、ここ、わたし

飯恚B

最澄は、常に一心(空)を見、一切法を見なさいと言っている。
空というのは主体のことで、主体を見なさいということは、
己れの心の本体を振り返りなさいということだ。
そして一切法を見なさいというのは、現象を見なさいということだ。
相即の理を非常にていねいに説明している。
それは、一心を見る心を消してから、一切法をみなさい、といっているのではない。
同時なのだ。そうでないと、色即是空はなりたたない。
ところで実は、その主体というのは、お互いはごみだらけなんだが・・・・・・・。

(「会計人の原点」飯恚B、TKC出版、45頁)
 

ジル・ボルト・テイラー

・左の言語中枢が沈黙してしまい、
左の方向定位連合野への正常な感覚のインプットが妨げられたとき、
わたしに何が起きたのかを、神経学的に説明することができます。
私の意識は、自分自身を個体として感じることやめ、
流体として認知する(宇宙と「ひとつ」になったと感じる)ようになったのです。(221頁)
・深い内なる安らぎは、
右脳にある神経学上の回路から生じてくるものだと心の底から信じるようになりました。
この回路はいつでも機能しており、いつでもつなげることができます。(260頁)
(『奇跡の脳ー脳科学者の脳が壊れたときー』ジル・ボルト・テイラー、竹内薫訳、新潮社、2015年)
 

福岡伸一

「生命とは、動的平衡にある流れである。」
(『生物と無生物のあいだ』福岡伸一、講談社、2007年、167頁)
・動的平衡(どうてきへいこう、英語:dynamic equilibrium)
物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、
系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。(Wikipedia)

・1年前のあなた自身のほとんどは「物資的」に入れ替わっている。
 
 

瞑想でたどる仏教(参考)


 

念処(ねんじょ)Satipatthana


<念処>「心身の観察」
・サティパッターナ(Satipatthana)
・パーリ―語(南方に伝持(でんじ)された仏典を記した言語)の「サティパッターナ」を漢訳した言葉。
・「注意を振り向けてしっかりと把握する」こと。
・「念所」とは、私たちが五感で感じ取っていること自体や、自分の身体の動きなどを対象化して、
 それに注意を向けること、気づくこと。
・その基本は、自分の呼吸の「入る、出る」に「気づく」ものでした。
・呼吸には、入る息と出ていく息があります。その入る息や出ていく息に、注意を振り向けます。
 気を付けるべき点は、例えば音楽を聴いている時に聞こえてくる音楽ではなく、
 「聴いていること自体」に注意を振り向けることです。
・「注意を振り向ける」ことは「観察する」と言い換えることができます。
(注)*11-12頁
 cf. →「止」「観」

<識別作用>
・苦しみの原因は「識別作用」である。
・「戯論」:心が働きを起こすこと。
・「戯論」を抑えていくための「身体を観察」の方法が「念処」である。
・私たちの感覚器官が捉えているもの、私たちの体の動きなどを、観察し、
「注意を振り向けて、しっかりと把握し」続けていくことで、
そこから先に心が勝手に動き出していかないようにしていたと考えられるのです。
これが、ブッダが見出した、私たちが苦しみから逃れるための唯一の方法であったいうことになります。
(注)*18-19頁

<次なる心の働きが起きなくなる理由>
・心の容量はそれほど大きくない。
 感覚や行動に注意を振り向け、気づき続けると、心の容量が限界に近づき心の働きが起きにくくなる。
・感覚器官が捉えたものをそのままに把握することが習慣化される。
(注)*19頁

*「NHKこころの時代宗教・人生瞑想でたどる仏教(心と身体を観察する」蓑輪顕量、NHK出版、2021年
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 (大念処経)英訳の和訳



<「業処(ごっしょ)」観察の対象>
・「身」身体における動き、呼吸、手足、日常の動作
・「受」感受作用、感情
・「心」心が起こす様々な働き、
    むさぼりの心、
    怒りの心、
    愚痴の心、
    萎縮した心、
    散乱した心、
    大いなる心、
    安定した心、
    安定しない心
・「法」誰もが起こす心の働き
  <五蓋(ごがい)五つの障(さわ)り>
    @貪欲(とんよく):欲しがりむさぼる気持ち
    A瞋恚(しんに) :強い怒り
    B沈鬱(ちんうつ):暗く落ち込んでしまう気持ち
     眠気(ねむけ) :眠たい気持ち
    C掉挙(じょうこ):そわそわしてしまう気持ち
     後悔(こうかい):こんな観察に身を置いてしまったという悔いる気持ち
    D疑い      :何でこんなことをするのだろうという気持ち

<四念処(しねんじょ)= 4つの観察>
 @ 身念処(しんねんじょ)
 A 受念処(じゅねんじょ)
 B 心念処(しんねんじょ)
 C 法念処(ほうねんじょ)
 

四念処(読み)しねんじょ(英語表記)catvāri smṛtyupasthānāni


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「四念処」の解説
四念処/しねんじょ/catvāri smṛtyupasthānāni
「四念住」ともいう。
仏教で 37種の修行を7つの部類に分けたものの第一で,この部類に属する4種の修行をさす。
「念処」とは記憶をとどめおくことで,真剣な思いを意味する。
(1) 肉体の不浄 (身念処)、
(2) 感覚の苦 (受念処) 、
(3) 心の無常 (心念処) 、
(4) 法の無我 (法念処) に思いを凝らす観法。
7つの部類の一つとして明確に位置づけられたのは後世であって,
原始経典中には、上記の4種を独立の修行法として説く場合が多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)「四念処」の解説
四念処/しねんじょ
原始仏教経典に説かれた4種の観察法をいう。4種とは、
(1)身念処(自己と他人の肉体が不浄(ふじょう)であると観察すること)、
(2)受念処(もろもろの感受作用は苦であると観察すること)、
(3)心念処(もろもろの心作用は苦であると観察すること)、
(4)法念処(すべての存在物は自分のものと執着(しゅうじゃく)すべき実体がないと観察すること)をいう。
[坂部 明]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典「四念処」の解説
しねん‐じょ【四念処】
〘名〙 仏語。三十七道品の最初の修行法。
「身・受・心・法」の四つについて思いをこらして、
「常・楽・浄・我」の四つのとらわれを破るもので、
@身を不浄とする「身念処」、
A感受するものすべて苦とする「受念処」、
B心は無常とする「心念処」、
C法は無我であるとする「法念処」の総称。
※往生要集(984‐985)大文五「如来還以四念処義、答其所問、言義不重、楽説無窮」
出典 精選版 日本国語大辞典/精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「四念処」の解説
し‐ねんじょ【四念処】
仏語。三十七道品(ほん)の最初の修行法。
@身を不浄とする「身念処」、
A感受するものすべて苦とする「受念処」、
B心は無常とする「心念処」、
C法は無我であるとする「法念処」の四つをいう。
出典 小学館/デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
(注)四念処とはーコトバンク

・WEB版新纂浄土宗大辞典「四念処」
しねんじょ/四念処
さとりを得るための四種の修行法で、三十七道品の第一。
Ⓢcatvāri smṛtyupasthānāniⓅcattārosatipaṭṭhānāの訳。
新訳では「四念住」といい、「四意止」とも訳される。
「身・受・心・法」の四種に対する観法で、
@身体は不浄である(身念処)、
A感受は苦しみである(受念処)、
B心は無常である(心念処)、
Cすべての事象は無我である(法念処)
と観察し思い浮かべる行法である。
すなわち、「身・受・心・法」という内外の一切法の「無常・苦・無我」を観察するものである。
また、四念処は『大智度論』一九(正蔵二五・一九八下)や
『俱舎論』二三(正蔵二九・一一九上)などでは、
「身・受・心・法」に対する四つの誤った見方(四顚倒 [してんどう] )、
@身体は浄らかである、
A感受は楽である、
B心は常住である、
Cすべての事象は我という本質がある、
を打ち破るものであるともされる。
【資料】『中阿含経』「念処経」(正蔵一)
【参考】下田正弘「四念処に於ける不浄観の問題」(印仏研究三三—二、一九八五)、
 田中教照『初期仏教の修行道論』(山喜房仏書林、一九九三)
【参照項目】➡菩提分法、顚倒
【執筆者:榎本正明】
(注)WEB版新纂浄土宗大辞典「四念処
 

「念(ねん)」と「知(ち)」の働き



<「念」サティ>
パーリ語で「サティ(巴: sati、梵: smṛti:スムリティ)」とは、
「特定の物事を心に(常に)留めておくこと」である。
日本語では「念(ねん)」や、「気づき」、
英語では「マインドフルネス(mindfulness)」などと表現する。
漢訳で「念」。
仏教の実践において「正念(しょうねん、sammā-sati)」とは、
「八正道(はっしょうどう)」の一つとして重視される。
「正しい念」は、三十七道品のなかの四念住(しねんじゅう)などにおける念とあるように、
基本概念の一つである。
対象に執着あるいは嫌悪などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で注意を払うことを意味し、
仏教における瞑想の基礎的な技術の一つであり、念を深めると心が固定され、
何事にも惑わされない定(じょう)の状態に至るとされる。(Wikipedia)

正知(サンパジャーナ) Sampajāna https://note.com/annata/n/n1b0798078b05

・サティ(念)とは、
「数え上げること」唇が動いていることを象徴的に表す、言語が関わる
「掴むこと」感覚的につかまえているような感じ、対象として把握している、了解している
・一語で二つの働き
@捕まえられる対象を「感覚的に捕まえる」働き
Aそれを確認するかのごとくに「言葉が関わって捕まえる」働き
・ブッダは言葉を関わらせずに対象を認識することが可能であることを見出していた。

「念」 → 「念」と「知」の二語へ
「念」言語を介さずに感覚的に把握するために「注意を振り向ける」働きを指してサティ(念)
「知」言語的にもしっかりと了解するような働きを指してサンパジャンナ(知)

 

名色(みょうしき)の分離


 
「名(みょう)」:注意を振り向けている心の働き=「想(そう)」
「色(しき)」 :注意を振り向けられている対象=「識(しき)」
「受(じゅ)」 :感受作用の働き、「楽」「苦」「どちらでもない感受」
「行(ぎょう)」:「想」に影響している何かの働き、
        その背後に隠れている働き「潜勢力(せんせいりょく)」「形成力」、記憶の働き


<呼吸観察>
「名」:心の働き
「色」:風のような感覚

「名色の分離の智が生じた」
 =自然と悟りが生じたような気持になる

「能取(のうしゅ)取るもの」
「所取(しょしゅ)取られるもの」 *23頁

<縁起>
「捕まえられるもの」が生じたあとに「捕まえる心の働き」が生じるのでこの関係性から
「縁起」えんぎという一方的関係性の原型が生まれたと推測
*40頁

五蘊(ごうん:色・受・想・行・識)
*五蘊の「色」は物質的要素「名色分離」の「色」とは異なる
*後代には「想」と「識」の意味が入れかわる


<名と色とは>*25頁

名          色
おいしそう      食べ物を認識する視覚
いいにおい      においを認識する嗅覚
あつあつ       温度を認識する触覚

色(捕まえる対象)が生じてから、名(捕まえる心の働き)が生じる。その逆はない。
(*25頁)→42頁「十二因縁」

<心身の観察が目指したもの>
・悩みや苦しみから脱却すること
・人間の認識の構造を見出し、勝手に拡張していく心の働きを静めることで可能
・具体的手立ては「念処」の実践
・五蘊の働きからは根源で認識を成り立たせている「行」の働きを静めること

<大乗仏教>
五蘊皆空 色即是空 空とは一心をいう
 

「止」と「観」の観察

 
「サマタ」    (止):奢摩他(しゃまた)
「ヴィパッサナー」(観):毘鉢舎那(びばしゃな)

cf.
「サマタ瞑想(サマタめいそう、巴: samathabhāvanā)」は、
こころを特定の対象に結びつけて集中力を養う瞑想である。
「サマタ(巴: samatha)」、「シャマタ(梵: śamatha)」、「奢摩他」とは、
ひとつの対象に心を落ち着かせることを意味する仏教用語であり、
「止」と漢訳される。(Wikipedia)

「ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーめいそう、巴: vipassanā-bhāvanā)」は、
「ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)」と
「ルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)」を観察することによって、
仏教において真理とされる「無常・苦・無我」を洞察する瞑想(バーヴァナー)である。

アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる。

「ヴィパッサナー(巴: vipassanā, ウィパッサナーとも)」は「観察する」を意味する。
また、「ヴィパッサナー(巴: vi-passanā)」とは
「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である。(Wikipedia)
 

「言語の道を断ずれば、様々な戯論は滅する。」

「何が奢摩他(しゃまた)であるか、何が毘鉢舎那(びばしゃな)であるか。
どうしてこの二つに多くなすところがあるのか。
この義の中に、八次第定(はちしだいじょう)を奢摩他と名づけ、
もたらされる聖なる智慧を毘鉢舎那と名づける。」

・「八次第定」とは、禅定(ぜんじょう)という心が静まった状態を八段階に分けたもの
「八次第定に達する観察」が「サマタ」であり、
「智慧が生じてくる観察」が「ヴィパッサナー」と位置付けられていた。

・初期仏教の「念処」が「止」と「観」に分かれる。

・天台小止観
・魔訶止観



オンライン仏教辞典


 

瞑想でたどる仏教

瞑想でたどる仏教 第4回 中国文化との融合A

 
・動画
・「現在 今をいきる」これは禅の教えです。
一人ひとり、自分がきちんと分かれば、じゃあ自分はこれからどうすべきか、自分が責任をもって、これが一番大事なこと、
どんな人であっても将来性がある、絶対可能性がある、だから仏教の教えでは、やっぱり仏性(ぶっしょう)。仏になれる性分をもっているから皆さんは将来的に悟られるんです。
釈 満潤(臨済宗日本佛光山総住職)談

インドで生まれた仏教はシルクロードを経て、目に見える仏の姿を瞑想の対象とし、中国では、伝統文化と融合しながら人々の暮らしに根を張ってい行きました。
苦しみから逃れる道を示し続けてきた仏教が、たどりついた姿です。
 
・皆さん苦しんでいる。人間関係で苦しんでいる。
テスト、生活、コロナ、・・・
時代によって苦しんでいることは違うけれど、苦境から救って楽にさせるのは、仏教徒の役割と使命感。
仏教の一番のだいご味は、包容力、皆さんのいいところ、どうやって一緒に生きていくか、そういう考え方がもとについている。だから、もう、完全に伝統を守りじゃなくて、やっぱり現代の今の人は何が必要か、そう考えて対応していく、これが仏教の醍醐味。
釈 満潤(臨済宗日本佛光山総住職)談
【参考映像】心の時代〜宗教・人生〜 めい想でたどる仏教〜心と身体を観察する
  第4回「中国文化との融合」 初回放送日:2021年7月18日(NHK Eテレ)
 

瞑想でたどる仏教 第5回 日本仏教の誕生A



道元(どうげん)日本曹洞宗の開祖(1200-1253)
ー『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』「現成公案(げんじょうこうあん)」
 
 仏道をならふといふは、自己をならふ也(なり)。自己をならふといふは、自己をわするるるなり。
 自己をわするるといふは、万法(ばんぽう)に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、
 自己の心身(しんじん)および他己の心身をして脱落(とつらく)せしむるなり。

*113頁
・「万法に証せらるる」
認識の対象になったものが、ただ心の中に現れ出ているだけで、
こちら側からそれを捕まえようとしていないことだと解釈できます。
その背景には、初期仏教以来の伝統的な
「名(みょう:捕まえる個々の働き)」と「色(しき:捕まえられる対象)の関係があると考えられます。

・「心身を脱落せしむる」とは、
「心に生じた捕まえられる対象(色)」と「捕まえる心の働き(名)」との双方がなくなることでしょう。
私たちの心が、「捕まえられる対象」と「捕まえる心の働き」に、
一度は分けられたうえで、更にそのどちらにも執着しないことだと考えられます。
そのため「万法に証せらるる」というのは、
判断や区別だての働いていない「無分別(むふんべつ)」の境地であると推定されます。


 

臨済宗の宗旨



「臨済宗」は、「仏心宗」・「達磨宗」とも呼ばれる、禅宗の一宗派です。
「臨済宗」は、お釈迦さまの正しい教え(正法[しょうほう])を受け継がれた
達磨[だるま]大師(初祖[しょそ])、臨済[りんざい]禅師(宗祖[しゅうそ])、
さらに禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済中興の祖・白隠[はくいん]禅師から
今日にいたるまで、「一器の水を一器へ」移すがごとく伝法された一流の正法を教えとし、
我々に本来備わる尊厳で純粋な人間性(仏性[ぶっしょう])を、坐禅・公案・読経・作務などの
修行を通して、自覚(見性[けんしょう])することを旨とする宗派です。

*「臨済宗檀家信徒経典 現代語訳付」禅文化研究所、2021年

瞑想でたどる仏教 第6回 心を師とするなかれA

MAINDFULNESS MEDITATION


 
・仏教の瞑想は、今、形を変えながら、私たちの生活にも活かされようとしています。
・早稲田大学 文学学術院(臨床心理学実験の紹介)
嫌なことや不安なことを思い浮かべて、その後違うことに集中すると、嫌な思いが消える体験。

・瞑想は「注意」をどう扱うかという技法。

・嫌な気分というのは、今この瞬間に起きていることに好奇心を持って注意を向けることができるようになると、比較的速やかに変わっていけるものなのです。

・ストレスにつながる心の動きを、呼吸など、今この瞬間の体験に意識を向けることで減らそうとするのが「マインドフルネス瞑想」です。この研究室ではマインドフルネス瞑想の有効性や適切な指導方法を調査しています。4年前から取り組むのが、瞑想中に生じる副反応についての研究です。

・8週間毎日家に帰ってから20分程度の短い瞑想を行っていただいた。その瞑想中の体験を文章で書いていただいたもので、報告からは瞑想を妨げる具体的な状況が見えてきました。

・家族が近くにいると気が散る。リラックスできない。
・集中しようとしたけれども、うまくいかなかった分イライラした。

・最初は瞑想のイメージとか、こういうふうのするべきみたいなことが、各々の参加者にあるようで、集中できないといけないとか、無にならないといけないというイメージに従って、自分が集中できていないとか、瞑想がうまくいっていない感じがするとか、そういうコメントが多い。(阿部哲理 談)

・大切なのは思いが乱れるのは当然と知り、そこに執着しないことです。
・望まない効果というのは、どういうタイプの人に現れやすいのか、そういう効果を、より抑制するには、どういう方法があるのかということが明らかになって、初めて、その技法をより適切に、安全に効果的に使えるようになると考えますので、副作用・副反応に関する研究は、効果研究と同様に重要であると考えます。
やっぱり瞑想と聞くと日本ではオウム真理教の事件などもあって、多くの人が危ないものであるとか、危険なものだという感覚をお持ちだと思いますし、一体何か分からない、また効果も気のせい、眉唾なんじゃないかって、そういうふうにお思いの方も多いかなと思います。それを科学的にその効果を実証してどういう効果があるのかとか、同時にどういうリスクがあるのかということが分かっていくと、選択肢の一つとして、日常のストレスとうまく付き合うための技法として、何を用いるかということの選択肢の一つになればと思っています。
(早稲田大学文学学術院 教授 越川房子 談)


東京大学
・脳科学の分野では、瞑想中に脳で何が起きているのか、メカニズムの解明が進んでいます。こちらの研究室では、血流から脳の働きを可視化する特殊なMRIで、瞑想中の脳の様子を調べています。
<タスクポジティブネットワーク:外界のことに注意をむけて作業>
<デフォオルトモードネットワーク:休憩、瞑想、考え事>
(図略) <TPN> <DMN>
瞑想中、顕著な変化を見せたのが図の青い部分。
考え事など自らの内面に意識を向ける時に活動するデフォルトモードネットワークと呼ばれる領域です。

・私たちは瞑想経験者の方に協力いただいて、瞑想している時の状態を調べました。そうすると、瞑想している時は、デフォルトモードネットワークの中のつながりが強くなっているということが分かりました。(東京大学大学院教授 今水寛 談)

・瞑想中、青い領域(DMN)では、内部の結びつきが強まります。これを応用することで脳の活動を刺激できれば、うつ病などの治療に役立つ可能性があります。一方で青い領域と、外からの情報を得る際に働く赤い領域(TPN)などとのつながりは、弱まっていました。こうした状態は瞑想のマイナス反応に関わるのではないかといいます。

・外の世界の情報を遮断して内側の世界に注意を向けている状態、そういう状態は瞑想の負の側面として知られている妄想や幻覚が起きやすい状態なのではないか、と考えています。これは、一つの可能性ですが、心理学や脳科学の観点から瞑想を解釈することができれば、人の心というものをより多面的に捉えることができるのではないかと考えます。(東京大学大学院教授 今水寛 談)


<マインドフルネス瞑想>

・現代、この瞑想への関心が高まっていますが仏教における瞑想と「マインドフルネス瞑想」は同じものですか?

・マインドフルネスの観察の仕方を定義している言葉がありますが、「価値判断を入れずにありのままを見ること」、と定義しています。
観察の技法という観点から見ると、仏教が行っている瞑想も、「マインドフルネス瞑想」も、同じものだと言っていいと思います。
仏教が見ている世界は、瞑想は一つの手段、ものの見方とか、社会での生き方、という言い方をします。仏教の場合には、瞑想と「慈悲」がいつもセットになっている。それから自分たちの生活をきちんと律していく、これ「戒律」というものが存在して、いろいろなものと一緒になって心の観察というのが存在していました。確かに悩み苦しみを超えていくというのは大事な点ですが、瞑想がテクニックとしてだけ使われると問題点もあります。



・瞑想を「どう使うか」これが大事になっています
・アメリカ軍隊では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)対策に事前に「マインドフルネス」をやるようです。しかし人間を殺人兵器に仕立てているような感覚があります。PTSD対策という意図は理解できるが、全面的によいともいえない。
・仏教がはずれてマインドフルネスになると、人が心を乱さないで集中できる技術ということになると、危険なことになる可能性があるかもしれません。

・湖の上でボードをこぐときの漕ぎ方が「瞑想」みたいなもので、どこに行くかは、その人の意図によって変わってくる。その意図をきちんと見つける、大事にしていく点がほんとはある。それは仏教の中では「他者性」がきちんと担保されていて、「どうあるべきか」がきちんと出されている。

・基本的には瞑想は技術、身体技法みたいなところがある。
技術であると同時に、仏教は使い方の指針もしっかり示している。戒律の中には、まず最初に「人を殺めてはいけない」というのが在家の人たちに向けてもでていますし、出家者にとっても重要なものとして出てきます。

・個人が苦しみから逃れたあと「どう生きていくべきか」を、きちんと示している、というのが大事なところです。

・個人というものを超えて、人間は一人では存在しえないもので、他社との関わりの中で、社会を構成し、その社会の中でどうあるべきかを、見据えていると思います。


<仏教は「瞑想」が中心にある>
・「瞑想」自体はパワフルでどのようにも使えるところに仏教が目的を与えて、人を救うためにある、というふうにしたのは、よく理解できました。

・仏教が身体的に得た知見をどうやって伝えるのか。
スポーツの世界で次に伝達していく時に、一番難しいことです。トレーニングメソッドもトレーニングメニューも知識も全部伝達できますが、この身体で覚えた感覚だけが伝達できません。その中でよく仏教が言葉を使いながら伝えられたというのは、「瞑想」を最後まできちんと守ってい来たのが、大きかったと思います。

・仏教も体験したもの感じたものを、どのように伝えていくかというのは、一番大変だったと思います。しっかりと注意を振り向けて確認することが、それを可能にしていくんだというのを見つけ出して、それを伝えていくために、言葉を使わざるを得ないという、矛盾したものもしっかりと理解し、次の世代の人たちに残してくださったというのが、仏教の素晴らしいところです。

・私たちは、私たちの感覚器官を通じて世界を認識して、そこから生じる心の働きに悩み苦しんでしまいますが、それが完全になくなるというふうには仏典の中では書かれていません。そのような様々な働きが生じてもそれをこらえることができるようになる、何とかしてきちんと生きていくことができる、その心に支配されないでそれを超えていくことができる、と述べられています。ですから、まさに「心の師となるも心を師とすることなかれ」ということで、まずは、自分を整えて、そして社会の中でどう活躍できるのか。そこで、出来ることが自分の生きている意味みたいなものを、後で自覚することにつながるのではないかと思います。仏教は、そうしたことを伝えようとしたのではないかと考えています。
 
【参考映像]】心の時代〜宗教・人生〜 めい想でたどる仏教〜心と身体を観察する
  第6回「心を師とすることなかれ」 初回放送日:2021年9月21日(NHK Eテレ)
【参考文献】
 蓑輪顕量『NHK心の時代 宗教・人生「瞑想でたどる仏教」心と身体を観察する』NHK出版、2021年

 

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MEDITATION(瞑想)


ENLIGHTENMENT

True Self <こころの探求>
 感覚的認識対象のすべては、
 己の主体、すなわち一心(空)の中にはない、
 それらは「色」というべきものなのである。
 多くは色が一心の中に紛れ込んでいるが、
 それを紛れ込ませないためには、
 完全に色から超絶している
 自分の本性を発見し自覚する必要がある。
 といってもそれは、
 本性に固執して暮らすべきだと
 主張するのではない。
 本性などと呼ぶべきものは無いのだ。
 無いから、それを本性という、
 という論理が大乗仏教の思想の中にはある。
 臨済は、魔仏これ染浄の二境といった。
 こころの探求に当たっては、
 この言葉を玩味する必要がある。
(飯恚B「会計人の原点」TKC広報部、1981年、3頁)
 TKC全国会創設者 初代会長 故 飯塚毅先生



 

摩訶般若波羅蜜多心経




 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
 照見五蘊皆空 度一切苦厄。

 舎利子。
 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
 受・想・行・識・亦復如是。

 舎利子。
 是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

 是故空中、
 無色、無受・想・行・識、
 無眼・耳・鼻・舌・身・意、
 無色・声・香・味・触・法。
 無眼界、乃至、無意識界。
 無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
 無苦・集・滅・道。
 無智、亦無得。
     
 以無所得故、
 菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、
 心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。

 三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。

 故知、般若波羅蜜多、
 是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
 能除一切苦、真実不虚。

 故説、般若波羅蜜多呪。
 即説呪曰、
 羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。

 般若心経


 

五蘊皆空
色(肉体)/受(感覚)/想(表象)/行(意志)/識(意識)のすべては「真我(True Self)」ではない。
 自分で、自分だと思っている自分は
 本当の自分ではない。

 自分が頭の中に描いている「自分」は、
 描かれた自分であって、
 描く方の自分ではない。

 自分の意識には三重構造がある。
 今まで自分だと思っていたものは、
 行動主体としての自分ではなく、
 単に自分の観念が描いた自分でしかない。

 自分が客観化できない世界に、
 己の主体(真我)がいる。

 そして己の主体というものは、
 「存在しない」という状態で「存在する」
(注)飯恚B「自己探求」TKC出版、2012年、52頁より抜粋

 
 
穿った見方をすれば、自分に対するイメージに自分が洗脳されているのである。
心無罣礙    こころに「かこい」はない。こころに「かたち」もない。
 お釈迦様は、アートマン、輪廻転生を否定している。

  空

更無二念


 更無二念 


二念を継がず
刻苦光明必盛大也
中国の臨済僧・慈明楚圓(じみょうそえん)禅師の逸話で、
厳しい修行の中坐禅をしている時に睡魔に襲われたら
ただ一言、「刻苦光明必盛大也」と言って
錐で股を刺して耐え忍んだとされる話からきている言葉です。
※お詫び 禅病を患い、現在、闘病中。
 Mindfulness  マインドフルネスとは
 

自未得度先度他


道元禅師の『正法眼蔵』「発菩提心」の巻の中に、「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」という教えがあります。

白隠禅師坐禅和讃 

衆生本来仏なり    水と氷の如くにて    水を離れて氷なく   衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠くを求むるはかなさよ 譬えば水の中に居て  渇と叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず  六趣輪廻の因縁は   己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつかは生死を離るべき 夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懴悔修行等     其の品多き諸善行   皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積みし無量の罪ほろぶ  悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を   一たび耳にふるる時   讃歎随喜する人は   福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば   自性即ち無性にて   すでに戯論をはなれたり
因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し    無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として  うたうも舞うも法の声  三昧無礙の空ひろく  四智円明の月さえん
此の時何をか求むべき 寂滅現前する故に    当処即ち蓮華国    此の身即ち仏なり


 
・本来本法性、天然自性身(ほんらいほんぽつしょう、てんねんじしょうしん)
→ 本来みな仏の心を具え、生まれながらに仏の身をもっている

「迷っている仏(ほとけ)」が人(ひと)である、とすれば、「迷いのない人」が仏である。
観自在菩薩 少し飛躍すれば、観自在菩薩は、「あなた」のことです。
 
 抜苦与楽  


 
四苦八苦 生老病死 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦
恨みをもって恨めば恨み消えず
人間は、「人は何のために生きるのか」の問に答えることができない。
その問いに答えられるように、脳はプログラムされていない。
ある程度の生活ができるようになれば、
明日も、犬や猫のようにただ飯が食えるというだけでは生きていけないのである。
結局、何か(のために)生きる目的を探し求めることとなる。
だが、究極的には、「いま」、「ここ」、「わたし」を精一杯大切に生きるしかない。
 
私利私欲を滅し、公利公欲に至る(渋沢栄一)
親に「素直でいい子」と褒められる代償に、本来の自分を失う。それにより、無気力になってしまっては元も子もない。本来の自分の想いを通せば、親は悲しむことになるのである。親に感謝する気持ちが生ずれば救われるのだが。
自己肯定感があると挑戦する人になる。(滝沢カレン)
「自利利他」理念の実践(自未得度先度他)
自利利他の解釈は諸説あります。私は、これを「自利とは利他をいう」という解釈が最も正しいと信じます。(最澄伝教大師伝)本当の自己(空)を発見自覚し、他のために徹底的に、心の限り、命の限り、思いの限りを尽くして奉仕し、大切に思い、大事にする、と解してもいいでしょう。それが、そのまま私の幸せとなるはず。究極のところ「本当の自己」に「自他の区別はない」ということなのですが、凡人の私にはそこまでの見性はありません。他のために徹底的に奉仕する、これを自分の実践上の原理とし位置づけ、この実践がそのまま、己が魂のよろこびになる、ということになるのでしょう。かけがえのない、たった一度の、あなたの人生を、「本当の自己」のために精一杯生き抜け、ということと思います。あなたにしか生きられない、あなただけの人生だから。(平成25年記す)
「自利利他の理念」とは、クライアント、従業員、国家社会のために徹底的に奉仕することです。

いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど   散りぬるを 我が世誰ぞ  常ならむ  有為の奥山   今日越えて 浅き夢見じ   酔ひもせず


山田無文「般若心経」禅文化研究所
もっとも正当な般若心経解説書
玄侑宗久「現代語訳般若心経」ちくま新書
意味から響きへ、理解から感応へ。262文字のここを体感する。
いのちの全体性へ。
横田南嶺「自分を創る禅の教え」到知出版
臨済宗円覚寺派管長がやさしく紐解く禅の教え
いま、ここを どういきるか
青山俊董「一度きりの人生だから ー もう一人の私への旅」海竜社
人生でいちばんだいじなことをお伝えします
山浦玄嗣「イエスの言葉 ケセン語訳」文藝春秋、文春新書
初めてわかった!イエスが本当に伝えたかったこと
ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳「奇跡の脳」新潮文庫
脳科学の脳が壊れたとき  深い心の安らぎをみつける(260頁)
解説 養老孟司・茂木健一郎
福岡真一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書
生命とは動的平衡(dynamic equilibrium)にある流れである(167頁)
ミチオ・カク著 斉藤隆央訳「フューチャー・オブ・マインド」NHK出版
心の未来を科学する
 

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MEDITATION(瞑想)

心身の観察(補)



<天台小止観>(78頁)
1.具縁 - 準備を整える
2.呵欲 - 欲望を喚起する物を遠ざける
3.棄蓋 - 5種の悪しき心(五蓋)を捨てる
4.調和 - 5種(飲食・睡眠・身体・呼吸・心)を調整する
5.方便行 - 5つの修行を行う
6.正修行 - 坐禅、随縁・随境修行
7.善根発 - 修行の結果として善い結果が現れる
8.覚知魔事 - 心の悪を知る
9.治病患 - 病を治す
10.証果 - 坐禅を実践して得られる成果四念処
 

無学祖元



乾坤(けんこん)地として孤筇(ここう)を卓(た)つるも地なし
喜び得たり、人空(にんくう)にして、法もまた空なることを 珍重す、大元三尺の剣
電光、影裏に春風を斬らん

辞世(偈)

来たるも亦前ならず
去るも亦後(しりえ)ならず
百億毛頭に獅子現じ、
百億毛頭に獅子吼ゆ

 

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中村元 - ブッダの生涯の解説

●現代に伝わる超人的なお釈迦様ではなく、歴史的人格としてのブッダの誕生から入滅までの解説です。解説者は中村元先生(なかむら はじめ、1912.11.28-1999.10.10)。
インド哲学の世界的権威で、多くの論文や著作を記され、東京大学教授、同大学文学部長、同大学名誉教授を歴任された後、東方学院の開設や比較思想学会を創設。世界各地で講演された他、NHKにも度々出演されました。

はじめに・・・0:00:00
誕生・・・・・0:12:26
成長・・・・・0:31:51
出家・・・・・0:54:02
悟り・・・・・1:31:52
初めての説法・1:53:28
伝道・・・・・2:08:50
入滅・・・・・2:15:40
おわりに・・・2:27:18





<筏の譬え>

釈尊は次のように語った。
ーーー修行者たちよ、
絶対的安楽を得るために、こだわりの心から開放されるために、
”筏の譬え”(いかだのたとえ)を説こう。

 修行者たちよ。例えば、道行く旅人が、大河に出あったとする。
 こちらの岸は危険であり、向こうの岸は安全である。しかし船も橋もない。

そこで旅人は考えた。「大きな河だ。しかし、こちらの岸は危険で向こうの岸は安全だから渡るしかない。
でも、船も橋もない。とするなら、葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡るしかない」

そこで、彼の人は、葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡った。
次に、この人は考えた。「この筏は、大変役に立った。この筏のお陰で、大河を渡ることが出来た。
さあ、次に私はこの筏を担いで道を歩いて行こう」

 さあ、この人は、適切な行動をとっているか? 否か?
ーーー弟子たちは「否」と言った。釈尊は続けた。
では、どうするのが適当か考えてみよう。

「この筏は,大変役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることが出来た。
さあ、私はこの筏を河中か岸辺に置いて、道を歩いていこう」

このように行う人こそ、適切な行いをした人である。
修行者たちよ、絶対的な安楽を得るために、こだわりの心から開放されるために、
私は以上のように、”筏の譬え”を説いた。
どうか修行者たちよ、この譬えの意味をよく理解せよ。
教えをすら捨て去るべき時がある。
なおさら、誤った教えは捨て去らねばならない。
(マッジマ・ニカーヤ)



・苦行説 分からない


「苦」=思い通りにならない
「渇き」=「衝動」
「涅槃」
「八正道」

・諸行無常=「いろは唄」

・「仏教」−本来平和の宗教

 
 

Blind people and an elephant 群盲撫象


▶ 参考:群盲象を評す

Wikipedia



 

under construction


 

記憶術



(工事中)

絵の中にものを入れる。
家から目的地までのi一定の場所に、覚えるものを置く(イメージ)

漢字を入れ替える

監察官 → 顔の上に「缶」鼻に「察」顎に「缶」とイメージ

「井上殿」、なら背景の木の中に「い」を探しておく。
覚えるべき名前を、風景(セットの庭など)の中に全部埋め込む。
「た」を石の上に置いた(発見した)なら・・・それを見て「田中殿」と思い出す。

例えば、人名の「中垣淳行(なかがきあつゆき)」
「熱い雪」と覚える「雪が熱いって、なんでやねん!」と覚える。頭の中に。
「かきの中」って覚える。
「かきの中に熱い雪がはいってどないすんねん!」と覚える。
二度と忘れない。
「熱い雪」は、非常に合わないものを、合わせることによって、記憶力は固定される。

台本に僕は書くんです。主役の時は「すいませんけど」といって二冊頂いて、片方には何も書きません。
もう片方はいっぱい書きます。
思いついたこと。覚えにくいところを書いたり。
あるいは、自分のここ、こうやりたいとか、
もう本当に、自分でも読めないくらい色も使ってやります。
で、それをやっておいて、本番の時は何も書いてない台本だけを見ます。
書くという作業が、覚えるだけじゃなくて、世界を理解していくための、
例えば、この人とこの人が夫婦となるとしたら、そこに絵をかいたりする。
名前で、こう、線を引いたりとか。それも含めて、
だから僕は台本は結構いっぱい書く方です。
なので、主役じゃない時の本は、もう自分でもなんだかわかんないくらいに書いて。

僕は、現場では、台本はまず開けない。
で例えば、「ちょっと改定したいんだけどな」って言って、監督が台本あると言われると、
「ここ(頭の中)ですけど」って、一応言います。
どうしても、という時は、メモ書きははします。
・・・
(内藤剛志 談)林家正蔵の演芸図鑑[2022.01.23]

ジャズ:ALONE,ALONE AND ALONE(日野皓正)


Terumasa Hino - Alone, Alone, and Alone (Full Album)  

Track Listing:
1. Alone, Alone, and Alone 0:00
2. Soulful 7:37
3. Summertime 18:15
4. Downswing 25:55
5. B-Lunch 29:17

Personnel:
Terumasa Hino (tp)
Yuji Ohno (pn)
Motohiko Hino (ds)
Kunimitsu Inaba (bs)

Recorded at Teichiku Kaikan Studio, Nov, 16 & 17, 1967.

 

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